鎌倉時代の武士の学問について
こんにちは!メルクリウスです!
このページは、わたしがAmazonキンドルで出版している「曽我兄弟より熱を込めて」の「閑話休題」から抜粋したものです。「閑話休題」では、当時の食生活や学問なんかについて紹介しているのですが、案外好評なのでブログで紹介することにしました。
これが面白いと思ったら、ぜひ本も読んでね。
閑話休題――兄弟はエリートだった?
ちはやぶる 神の誓ひの違はずは 親の敵に 逢ふ瀬結ばん 曽我十郎祐成
天くだり 塵に交はる甲斐あれば 明日は敵に 逢ふ瀬結ばん 曽我五郎時宗
曽我兄弟が仇討ちを祈願して、箱根権現で詠んだと言われる歌である。二つとも簡単に現代語訳すれば、「神様、明日は仇の祐経に合わせて下さいよ!」という意味。下の句が半分被っているところが、実に兄弟仲良しを感じさせるいい歌だ。
曽我兄弟と言うと、この二つの歌がとくに有名(今はとにかく昔は)なのだが、この兄弟、なかなかの風流人だったと見えて、仇討ちのために富士の裾野へ向かう道中では、
「ここは有名なパワースポットだから」
とか
「ああ、故郷を見るのはこれが最後だ」
とか言って、くどいくらい山盛りに歌を詠む。
五郎はそこまで歌に執着がなかったようだが、十郎の歌好きはかなりのもの。普段の生活の中でも、花を見、月を見ては詩情にかられていたようだ。
だが、実は――。我々は古文を読むとき、
「この人は昔の人なんだから歌の一つくらい詠めて当たり前だ」
と思ってしまいがちであるが、この時代の武士たちは「歌を詠んで書く」というワザは当たり前ではなかった。
平安時代末期から鎌倉時代初期――。
この時代、あらゆる文化、遊びは京のもの。東国の武士たちにとって、詩歌や管弦は縁遠い別世界のものだった。
当時の武士の様子を知る、貴重な物語がある。「男衾三郎絵詞」という絵巻物である。
「二人の兄弟がいた。弟は武勇に長じ、日々鍛錬に怠りなく頼もしかったが、兄は逆に風流に溺れ、歌ばかり詠んで日々を過ごしていた。
ある日、兄が山歩きをしていると山賊に襲われる。彼は逃げようとしたが、日ごろ武芸を怠っていたために、あっという間に山賊に殺されて命を落としてしまう。弟はこれを聞いて、たいそう怒った。
『武士である身が、風流に溺れ、歌ばかり詠んでいるから山賊ごときに殺されることになるのだ。我ら武士は、武芸
を怠らず、家に生首の一つや二つ転がっているくらいでなくては務まらぬわ』
激怒した弟は女子供にも無理矢理武器を持たせ、武芸に励まさせる。以後、山賊のほうがビビって近づかなかった」
……という話。何という血生臭く、恐ろしい話であろうか……。ここでは文章だけだが、絵巻物には当時の武家屋敷の風景――武士たちが甲冑や弓矢の手入れをしている図。庭に的当てが置かれている様子などが描かれていて、当時の武士たちがいかに鍛錬を怠らなかったかがうかがわれる。
当時の武士たちの武芸とは――弓矢、馬術、太刀、薙刀、流鏑馬、犬追いもの、笠懸など。特に弓矢は超重要アイテム。何しろ、武士は別名「弓負う者」と呼ばれていた。
これは、当時の戦いが騎馬戦であったことによる。馬を走らせたまま、自由自在に弓を引き、狙い過たず目的を射ることが、武士に求められた技術であった。
源平の戦いが、なぜ源氏の勝利に終わったのか。――源氏の率いる東国の武士団が、いずれも騎馬戦の名手であったからだ。平氏率いる武士たちは、海上戦には秀でていたが、騎馬は不得手であった。
余談だが、日本刀が現在の形になったのもこの頃。日本刀は弓のように緩くカーブしているが、これは馬上から相手を斬り伏せるのに、この形が適しているからなのだ。
東国の武士――彼らの騎馬技術は、おそらく彼らの生活の厳しさから来たものだろう。
東国の自然は険しい。そびえる岩山、湿地帯、深い雪、荒れ狂う河川。この自然と戦いながら、田畑を守ること。それが彼らの体を鍛え、神業のような馬術を産み出したのだ。平氏との宇治川での戦いの時、彼らは
「この程度、何事のことがあろうか。利根川の流れはもっと早いぞ!」
と叫んだと言われる。
彼らの生活は、日々これ鍛錬に終始――なので、お勉強の方はサッパリだった。
何しろ、ほとんどの武士は、字を読むことすら全然できなかったそうだ。ある賢い武士は、幕府からの書状が届いたのでそれを読んでいたら、周りにいたその他大勢の武士たちが
「すごい! これが読めるの? お前、天才だな!」
と拍手喝采だったとか。
中国の英雄、項羽(四字熟語の四面楚歌の元になったエライ人)は「武士たるもの、自分の名前さえ読めれば十分」と言っていたそうだが、当時の日本の武士たちも同じように考えていたようだ。
字が読めるだけでビックリの世の中。字を書いたり、ましてや歌を詠んでそれを紙に書くなんて高等技術は雲の上の話。よほどの粋人か、ものすごいお金持ち武士でなければできないことだった。
曽我兄弟は見苦しいほどボロい着物ばかり着ている、貧困にあえぐ下級武士だ。彼らが文字に堪能で、歌をよく詠むほどお勉強ができたのは、彼らが武士の中でも「変わり者」だったからだろう。
五郎がお勉強ができたのは、彼が箱根のお寺で念仏を叩きこまれたからだと思われる。五郎の短気でせっかちで即物的な性格からして、もし寺に入ることがなかったら、彼は一生「いろは」も読めなかったに違いない。
一方、十郎は――これは間違いなく粋人だ。彼は子供のころから勉強熱心で、お寺に通って読書をマスター。歌をどこで学んだかはつまびらかでないが、多分この寺の和尚さんから習ったと思われる。五郎がうちに帰ってきてからは、弟に習って念仏まで覚えたらしい。実に勉強熱心。まるで二宮金次郎みたいな男だ。彼は美しい自然の中を馬で進むときも、詩情抑えがたく歌を詠みまくってて、
「兄さん、もうやめようぜ」
と弟に言われるほどだったらしい。
おそらく、この頃の武士は二種類あった。
ひたすらに武芸に励み、「武力によって田畑を守る」ということを第一義とするタイプ。彼らは学問や歌を、貴族たちの遊びであり、何の役にも立たぬ芸だと軽蔑すらしていた。彼らにとっては、現実の生活や戦いこそが、生きる意味のすべてだったからだ。
もう一つは、武士の務めは武芸だと百も承知だが、文化芸術に憧れるタイプ。彼らは、京の文化、学問、仏教の教えへの深い尊敬がある。これからの時代は、武士が世を動かしていくのだから、武士たちも学問ができなければならないと彼らは考えている。
そして、その後の時代は――後者の学問ができる武士たちが世を動かしていくのだ。源平の戦いが終結し、鎌倉幕府が成立。武士たちは幕府の法と秩序の元にまとめ上げられる。文字を読め、法を理解する武士がえらくなれる時代が来たのである。
歴史に「もし」という言葉はないとよく言われるが――もし、兄弟が生きていたら、学問のできた彼らは出世して、頼朝の側で働いていたかもしれない。
まとめ
お粗末様です。
当時の学問について紹介しましたが、当たり前っちゃ当たり前なんですが、当時の下級武士は結構馬鹿が多いんですね……。馬鹿というか無学というか……。
もう一つ付け加えますと、当時の学問はオール文系です。歴史と和歌だけです。なので、数学だの物理だのやらない分、メチャクチャ文学に詳しくなります。十郎みたいに熱心な人は「ええッ……同じ人間?!」ってくらい名文が書けるようになります。
羨ましいことです……。メルクリウスも学生時代、数学で9点取った人なので……文系だけの社会に産まれたかったです。
「曽我兄弟より熱を込めて」買ってね。立ち読みも大歓迎!
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